1. アメリカスカップ (Americas cup)のはじまり
アメリカスカップ (Americas cup)とアメリカ号(America)の物語。
はじめに、この数奇で崇高な アメリカスカップ ヨットレースの物語は、1851年のことです。この年は、ロンドンで万博博覧会が開催されました。つまり、ビクトリア女王が君臨する大英帝国の地位は、文字どおりピークにありました。
なぜなら、英国の産業は、繁栄し活気にあふれ、たくさんの物資や材料が国内はもとより貿易を通じて行きかっていました。
もちろん、運輸の担い手は、船でした。当時は、飛行機など発明されておらず、いかに速く、すぐれた船を作る技術を持っているかということが、先端技術力を持つ国家としての証しであったのです。
しかし、当時の当時のアメリカ合州国は、登場したばかりの新しい国でした。反対に、イギリスは、産業と技術力において最先端の国でした。
2. アメリカ号(America)と記載された一通の手紙
はじめに、事の始まりは、一通の手紙から始まりました。
差出人は、アメリカのヨットクラブ “ニューヨーク・ヨット・クラブ(NYYC)”。受取人は、イギリスのヨットクラブ “ロイヤル・ヨット・スコードロン(RYS)”。
この手紙には、次のようなことが書かれていました。「我々NYYCは、一隻のスクーナーヨットを貴国へ送ります。貴国で開催されている万国博覧会の記念すべきヨットレースに出場したいと思います。船の名前は“ アメリカ号(America) です。」
つまり、この一通の手紙から、アメリカスカップの物語が始まります。大英帝国と新興国家にすぎなかったアメリカとの戦いの場が準備されたのです。
この戦いは、単なるヨットのレース競技ではなく、国の造船技術の争いの場となります。すなわち、科学と産業力、その奥には国家の威信と大きなプライドを賭けた戦いの場となりました。
3. アメリカスカップ (Americas Cup)の起源となったヨットレース
手紙を受けた英国のRYSは、さっそくレースの準備にとりかかりました。場所は、ロンドン南東部のワイト島(Isle of Wight) を一周します。
NYYCが送る“ アメリカ号 ”は、パイロットスクーナーというタイプです。万国博覧会に出展する見本として、1851年5月3日に進水したヨットです。
一方、RYSからは、15隻のセーリングヨットが参加しました。これに対し、アメリカ号 は、たった一隻で戦いました。
堂々とした船型をもつRYSのヨットに比べアメリカ号は、スリムでした。英国人は「ヤンキークリッパーの申し子がやってきた」と挑発しました。
ヨットレースは、8月22日の10時より開始されました。アメリカ号は、スタートに出遅れ最後尾でしたが、見事勝利してしまったのです。
4. 二番はございません
このレースの模様を、Victoria Albert 号より観戦していたビクトリア女王は、“ アメリカ号 ”の速さと、2位を圧倒的に引き離してゴールした強さに驚きショックを受けました。
ここに、ゴール地点でレース艇を待ち受ける女王が、信号手との間で交わした、とても有名な言葉が残っています。
女王 「先頭の船は、見えますか?」
信号手 「はい。“ アメリカ号 です。”」
女王 「では、二番の艇は?」
信号手 「陛下、二番はございません。」
( Your Majesty, There is no second. )
この「二番がない」という言葉が、いかに“ アメリカ号 ”が速いものであったかを物語っていました。
5. アメリカスカップ (Americas Cup)のトロフィー
勝利のトロフィーは、100ギニーカップといわれる純銀で造られたものが、NYYCへ贈られ、アメリカに持ち帰りました。これが、アメリカスカップ の起源であり始まりです。
このお話の持つ意味は、当時の超大国であった英国が、万国博覧会という世界的な舞台で、しかも女王の目前で見せた「大いなる屈辱劇」として海洋国としての威信を失墜させました。
お話は、このレースの結果だけにとどまらず、その後、アメリカスカップ の奪い合いという形で、英国をはじめ、世界中のセーラーやヨットクラブが、たった、100ギニーのカップを取るために、壮大な歴史が繰り広げられることになったのです。